


| 1961年2月、当時の西ドイツのある会社に、世界の大自動車メーカーの首脳達が続々と詰めかけていた。その会社の名前はNSU(エヌ・エス・ウー)。集まった首脳達の目的は一つ、NSUが試験開発に成功したという、「ロータリーエンジン」に関しての技術供与の契約を結ぶことであった。 ロータリーエンジンは200年以上前から理論だけは存在したが、その実用化に成功した者のいない、夢のエンジンであった。1958年、フェリックス・バンケル博士とNSUがその試験開発に成功したというニュースは世界の自動車メーカーの間に衝撃的に伝えられ、名だたるブランドネームがその実用化競争に血眼になったのである。 そんな大メーカー達の中に、後進国日本の弱小メーカー、東洋工業社長の松田恒次の姿があった。松田にはロータリーエンジンに期するものがあった。当時の額で2億8千万円という高額にもかかわらず、契約に踏み切ったのは、抜き差しならない事情があったからである。広島に本拠を置く東洋工業は、原爆と敗戦の痛手からやっとの思いで這い上がりつつあった。頭打ち状態が続いていた三輪自動車から、四輪自動車への足がかりをつかんだばかりだった。だが、その会社が最も恐れていたのは、迫りくる自動車の輸入解禁であった。通産省は解禁に備えて国内メーカーを三つのグループに再編する政策を推し進めていた。このままでは会社の存続が危うい。独立を守るためには、何としてもロータリーエンジン実用化に先んじて、自らの技術力を証明しなければならないと考えたのである。 |
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帰国した松田は、設計部に所属していた山本健一に、開発の陣頭指揮に当たらせた。だが、予想される開発の困難に、尻込みするものも多かったという。そんな時、彼の元に自ら志願してきたのは、若手のエンジニア達であった。平均年齢25才、彼らは夢のエンジンの実用化に希望と熱意を抱いていた。集まった若者は47人。赤穂浪士になぞらえて「ロータリー47士」を名乗った。 開発を進めるうち、試験開発エンジンには数々の問題があることが判明した。低回転時の振動、オイルシールからのリーク、そしてチャーターマーク…。そのどれもに解決策が見つからなかった。開発陣は重い空気に包まれ、ストレスから体調を崩すものもあった。1965年、そんな彼らに追い撃ちをかけるようなニュースが入る。それはプリンス自動車が日産に吸収合併されるというものだった。次は東洋工業がトヨタに吸収されるというウワサまで飛び交った。当時は学会や業界のロータリーへの批判も多く、ひとつ、また一つと名のある大メーカーでさえロータリー開発から撤退していく有り様であった。開発陣は皆の期待に応えられない重圧に苦しめられた。 |
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しかし、エンジニア達の情熱の火は消えることはなかった。それまでの日本の技術には、欧米というお手本があった。しかしロータリーに関してはまったく未知の領域であり、ゼロからの出発である。その事に気付いた若いエンジニア達は、血のにじむような試行錯誤を繰り返し、自ら道を切り開くべく問題に立ち向かった。まさに赤穂浪士のごとく、討ち死に覚悟であったのだ。気の遠くなるような作業の中から、やがていくつかの解決の糸口が見えてくる。それらは常識や通説からは決して生まれることの無い、無謀ともとれる自由な発想から生まれてきたのである。エンジン内部へのゴム素材の使用、クロスフロー、アルミとカーボンの複合素材など、彼らの若く柔軟な考えが突破口を開いた。 |
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そしてついに1963年8月、低く流麗なボディをまとったコスモスポーツを発表、4年間・延べ300万キロにも及ぶ走行テストを経た後、1967年5月、市販が開始されたのであった。 ロータリーエンジンの開発に成功した東洋工業は、世界中から称賛を浴びることになった。アメリカでは輸入車のカー・オブ・ザ・イヤーにも選ばれ、自社の技術力の高さを証明することとなった。誰一人として、その後のロータリーエンジンを取り巻く過酷な運命を予想するものはいなかったのである。
1973年、世界をオイルショックの悪夢が襲った。ロータリーエンジンはその高出力と引き換えに燃料を多く消費する。ロータリー車の売り上げは激減し、会社は一気に経営危機に陥ってしまうのである。リストラや配置転換が行われ、ロータリーが会社を傾けたと揶揄されることすらあった。開発は中断され、ロータリーの存続を問う経営会議が行われた。ロータリー開発に関わったエンジニア達は責任を感じ、何も言えなかった。しかし、その時役員の一人が発した言葉がエンジニア達の心に再び火を付けることとなる。「このまま開発をやめれば、ロータリーを信じて購入したお客を裏切ることになる」 開発の続行が決まり、47士達が集った。新たな開発は「フェニックス計画」と名付けられる。計画の目標は燃費の40%改善であった。普通では考えられない高過ぎる目標である。燃焼効率を上げるため、思い付くかぎりのアイデアが投入され、1000回に及ぶ改良が加えられた。そして昭和53年、目標どうり40%もの燃費改善を成し遂げた12A型エンジンが完成、新たなスポーツカー、「サバンナRX-7]に搭載される事となった。そしてこのエンジンの開発が新たなロータリーの歴史を作り上げていくことになる。マツダはロータリーエンジンを耐久レースの世界へ持ち込むのである。 (次項へ続く)
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